2008年9月30日火曜日
2008年9月29日月曜日
2008年9月28日日曜日
アリランの知覧の海や秋の声 塾長
1.アリラン アリラン アラリヨアリラン
2.アリラン アリラン アラリヨアリラン
3.アリラン アリラン アラリヨアリラン
2008年9月27日土曜日
ひぐらしや甲賀に老いて薬売り 吉田久子
○ ひぐらしの高く美しい声が薬売りの一生を昇華している。(伊予人)
○ 甲賀といえば忍者、薬売りといえば富山を連想する。忍者と薬売りの関係は非常に深いものがあり、そこに蜩を配合させた事により妙なる一句を形成している。(蟷螂子)
2008年9月26日金曜日
馬でゆく秋の七草ふんでゆく 長谷川素逝
2008年9月25日木曜日
2008年9月24日水曜日
2008年9月23日火曜日
2008年9月22日月曜日
見えて来る鰯の群れに村総出 石田ゆき緒
2008年9月21日日曜日
2008年9月20日土曜日
クオリオとは・・・・・・ 茂木健一郎
山路来て何やらゆかしすみれ草 松尾芭蕉
たかが俳句、されど俳句 塾長より
塾生の皆さん下記の句をじっくりと味わってみてください。
沈丁や夜でなければ逢へぬ人 五所平之助
沈丁:沈丁花(じんちょうげ)のことです。
ミステリー:何故、沈丁花なのだろう? よく考えて見てください。
*五所平之助は、「伊豆の踊子」を制作した映画監督です。
2008年9月19日金曜日
俳句雑感 川井洋司
塾生各位
岩間さんの「俳句は心のバロメーター」、高橋さんの「依正不二・心のステージをレベルアップ」、塾長の「気合十連発」、拝読致しました。
岩間さんが「情感、気持、感動を三次元的に表現しなければならない」言われている「三次元的表現」に眼から鱗の心境です。心に残る俳句からは、ありありと脳裏に投影される情景、空気を震わせている響、自然に流れる時間が体感され、当に三次元的な世界に導かれます。
岩間さんが言われるように「無の心境」で素直に感動した情景が、易しい言葉で五七五に籠められたとき、名句が掘り出されるのではと思われます。
高橋さん、仏教の考え方「依正不二」ご紹介いただき有難うございます。徳の有る人の周りには人が集まる、これも「依正不二」ですね。
心のステージをレベルアップし、感性を磨き、素直に対象と向き合うことにより、自分も他人も感動させる俳句が詠めるよう、私も努力致します。
何時もの事ながら高橋さんの博学には敬服しております。
脇本塾長
新人女性の句「望月に手のうち見せて駒をはる」拝読致しました。
マンションの斜め下の運動場で小学生が運動会の予行練習をしております。素直で元気な子供の声は生命力に溢れ素晴らしいです。来週、子供達を対象にした俳句を詠んでみます。その節は添削よろしくお願い致します。
川井洋司
2008年9月18日木曜日
2008年9月17日水曜日
参籠の母訪ふ柿をふところに 前田圭史
2008年9月16日火曜日
What is haiku ? 高橋裕司
俳句を始めて日の浅い私ですが、結構楽しんで自分なりに作句しております。脇本塾長に添削してもらうと、感情なり自然をただ直載的に述べてもいい作品にならないことに気がつきました。「奥行き」「暗示」「諧謔」「比喩」などをうまく織り込むことによって芸術性が高まるのでしょう。それには、年季と「心の鍛錬」が必要なようです。
和歌の世界では、「万葉集」と「新古今和歌集」を比較すると、前者は”詠み人知らず”の歌も多くストレートに心情を表現するのに対し、後者は教養ある貴族、僧侶の歌が中心で技巧に凝ったものが多いと言われております。いい悪いではなく好みでしょうね。
建築の世界での質実剛健な「イオニア式」に対して、華麗優美な「コリント式」。ミュージックでの「民謡」と「前衛音楽」などがあるように、芸術は素朴なものが、洗練されたり修飾されたりして変化してゆくものなのでしょうか?
いずれにせよ、「作者が感動しないものは、鑑賞者を感動させることはできない」というのが芸術の本質だと思います。
仏教の考え方に「依正不二(えしょうふに)」というものがあります。「正報(わが身)と依報(わが身以外の一切の対象物)は二つであるが分離不可能な一体である」という捉え方です。正報に応じたものしか依報として現れないということです。分かり易く言えば、「苦悩に落ち込んでいる時に、どんなに素晴らしい自然、人間に遭遇しても、その人に対しては、その対象物は苦悩の側面しか表わさない」「自分が怒っていれば、他人も怒りで対応する」。またその逆も真なりです。
こういう考え方から、心のステージをレベルアップして自然、人間を観察し、それを写真とか俳句に表現できたらばいいなと思っております。
俳句について思う 岩間雁宕
俳句は複雑である。
季語を基幹にして目に浮かぶ情感、訴えたい気持ち、感動を三次元的に表現しなければならない。それを追求すると、心の動揺や雑音があってはならない。
そのような日は年に数日しか無いような気がする。人間は感情の動物である。
人一倍多感な自分には貴重な時間でもある。
芭蕉の俳句を詠むと、凡人に無い透き通った心・広大な環境を感じる。現代の汚れた環境を知っている我々では芭蕉のような句は難しいような気持ちになってしまう。
極論し一言で俳句を表現するならば「心」ではないのではなかろうか。良い俳句が出来ない時は、ひとつのバロメータとして無の心境を求めて自分自身で心のケアーをするようにしている。
最後に苦言になるかもしれないが、俳句にはマニュアルも優秀作を選ぶ選者も必要無い。それはいかに多くの人に感動を与えるかでは無いのではなかろうか?一人、二人の選者では無い。
小生の先生が作った句で「白(はく)牡丹無垢の命の重さかな」は分かり安く多くの人に感動を与える句である。
還暦を迎えた歳になると友人、知己に娘さんの結婚の報を受けることが多いが、そのお祝いには必ずこの句を贈るようにしている。人によるが娘さんの父親から牡丹を見ると涙が出るよとの言葉を頂く。偏見と俳句の真髄を逸脱した考えを恥じながらの一筆である。
2008年9月15日月曜日
2008年9月14日日曜日
2008年9月13日土曜日
2008年9月12日金曜日
2008年9月11日木曜日
2008年9月9日火曜日
2008年9月8日月曜日
2008年9月7日日曜日
2008年9月6日土曜日
2008年9月5日金曜日
2008年9月4日木曜日
赤とんぼじっとしたまま明日どうする 渥美清
赤とんぼじっとしたまま明日どうする 渥美清(俳号:風天)三木露風の童謡「赤とんぼ」を思い出す。三番の結び。「……、とまっているよ、竿の先」。掲句の作者も見ているように、よく赤とんぼ(だけではないけれど)は、秋の日に羽を光らせて「じっとしたまま」でいることがある。休息しているのだろうか。が、鳥のように羽をたたまずにピーンと張ったままなので、緊張して何か思案でもしいるような姿に写る。露風の詩はここまでで止めている(この詩が、露風十代の俳句を下敷きにしていることは以前に書いた)が、掲句はもう一歩踏みだしている。お前、明日はどうするんだい。そう言ってはナンだが、何かアテでもあるのかい。この優しい呼びかけは、もとより自身への呼びかけである。お互いに、風に吹かれて流れていく身なのだからさ。と、赤とんぼを相棒扱いにして呼びかけたところに、露風とはまた違う生活感のある人間臭い抒情味が出た。作者は、ご存知松竹映画「『男はつらいよ』シリーズ」で人気のあった寅さんだ。いや、寅さんを演じた役者だ。渥美清は、俳号を「風天」と称していた。「フーテンの寅」に発している。掲句は朝日新聞社発行の雑誌「アエラ」に縁のある人々の「アエラ句会」で披露された45句のうちの一句。熱心で、句会には皆勤に近かったと、亡くなった後の「アエラ」に出ている。このことを知ると、どうしても「寅さん」が詠んだ句だと映画に重ね合わせて読んでしまう。止むを得ないところだが、しかし、そういうことを離れて句は素晴らしい。「どうする」の口語調が、とりわけて利いている。この秋の赤とんぼの季節も、そろそろおしまいだ。「明日どうする」。どうしようか。







































ナンバンギセル(南蛮煙管・思草)/物思い 
佐比売山昼の月あり姫紫苑 塾長

小判草一万両もありぬべし 有馬朗人





































秋刀魚焼くきのふも今日も隣かな 岡村 柿紅
















































邯鄲(かんたん) 































